鎌田留吉レポート
『東芝の周りを福の神が取り巻いて』
千葉の県人 鎌田 留吉
「月落ち烏啼いて霜天に満つ」という張継の詩がある。今の東芝の騒動を見ていると私は自ずから此の詩が浮かんでくる。しかしその字は「付き落ち、烏啼いて霜天に満つ」というものだ。
この騒動の主役である西田厚聡氏(写真)が2005年6月に社長に抜擢されたとき、当時のジャーナリズムが大騒ぎしたので、憶えておられる方も多いだろう。理由は二つであった。ひとつはその異色のキャリア。東大の政治思想史の大学院をでてイランの東芝に30歳代で入社し、イラン人の奥様を妻にもつこと。二つはそれまで「総合」という言葉からなかなか脱皮できなかった「総合電気」会社からやっと選択と集中の機運が持ちあがったことであった。
当時は総合と名のつく会社は全て忌み嫌われていた。総合商社しかり、総合電気然りであった。
重電三社といえば「日立・東芝・三電機」といわれ、会社の順序も株価の順序も長らくこの通りであった。それがいつまでも「この木何の木、気になる木」という曲とともに誇らしげにグループ企業を羅列し続ける日立を尻目に、西田氏は「半導体と原子力」とを二枚看板にすることを高らかに打ち上げたのであった。それを受け東芝の株価が日立を上回った! 当時は私もその東芝に大いに期待したものの一人である。
しかし、2008年に世界を恐慌へと突き落としたリーマンショックが起こったこともあり、2009年3月期半導体部門が大赤字を出した。西田氏は2009年6月に原子力一筋の佐々木氏に社長の座を譲った。そして、更に2011年の3.11が起きたのである。
私はかねてより名経営者というのは先が読めていたのではなく、その人の打った手(採用した方向性)が時代に適合していた人が名経営者といわれるのだというのが持論である。つまり経営者の評価とは須らく結果で判断すべきであり、また運がよい人間でなければならない。西田氏は、運が悪かった。
彼は、2011年6月で経営者を退くべきであった。
私はいつまでも彼が会長に留まり、人事権を行使するのを極めて奇異に思いながら東芝を注目していた(私の父は東芝に勤務し、つまり私は東芝のおかげで大学に行けたのだ)。冒頭に記した張継の詩よりも、むしろ漫才の戯れ歌のほうが西田氏には相応しいのかもしれない。
「目出度いな、目出度いな、東芝の周りを福の神が取り巻いて」中の貧乏神、出られない !!
2015.7.15記