『現実的であるものこそ理性的である』

千葉の県人 鎌田 留吉

ノーベル賞の授賞式が終わった。ノーベル賞に関係する人々の著作を読むときいつも考えることがある。

2008年に物理学賞を受賞した益川敏秀氏がこういうことを言っている。「僕は数学では多少の技術があるから、強引に理論を作りあげる。ところが、それを検討した小林君から『駄目です。この理論はこういう実験結果と矛盾します』といわれてしまう。」また、「物理というのは、自然現象を説明する学問だから一般論としてどんなにきれいな理論になろうと、現実の自然がそうなっていなければ意味がないんです。」(大発見の思考法p34、p38)

今回同じく物理学賞を受賞した梶田隆章氏に、もし生きていたなら当然受賞したであろうと言わしめた故戸塚洋二氏も言う。「人間の頭脳が生み出す理論も非常に重要なんだけども、理論を採用するかどうかを決めるのは自然であって、だからやはり自然から情報を得ること(観測・実験)が一番重要なんだ、と僕は思っている。」「やはり、自然が採用しなきゃ、それはジャンクですから。」(戸塚教授の「科学入門」p22、p31)

ご存知の方も多いと思うが、ノーベル経済学賞はノーベル賞ではない。従って賞金はノーベル基金からではなく、スウエーデン国立銀行から拠出され、スウエーデン国立銀行賞というのが正式名である。私は経済学に対するこの扱いを妥当だと考えている。なぜなら経済学者は理論構築に忙しく、物理学者のような現実との適合性に対する謙虚さに欠けていると思われるからだ。アベノミクスを謳い上げ始めてまだ間のない2013年の1月23日のインタビューで野口悠紀夫氏がこういうことを言っていた。「日本はこれまで2001年から2006年に量的緩和を行ってきた。しかし、マネタリーベースが積み上がるのみでマネーストックは増えず、貸し出し増もインフレもおきなかった。つまり金融緩和は実体経済に何も影響をあたえなかった。過去のデータを率直にみるべきであり、このデータを無視して議論するのは科学的議論ではない。」

経済学が社会「科学」でありたいと願っており、一時期ある現象を合理的に説明できたときもあったのだろうと思う。しかし、それが「法則」であるかのごとく一人歩きしてしまい、反省もなく継続されると、むしろ害悪をこそ蓄積する恐れがある。新しい現実が説明できているか?或いは現実が予測通りになったか?を批判的に厳しく精査することが必要であると思うのである。

「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である。」とはヘーゲルの「法の哲学」序文にある言葉である。

2015.12.14記