『女は己を ( よろ ) こぶ者のために ( かたちづ ) くる』

千葉の県人 鎌田 留吉

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筆者近影

10月25日の日経夕刊の「プロムナード」欄に「私たちはタダである」という文章が掲載されていた。
著者の木皿氏(おそらく女性)は、1970年代に青春時代を過ごした人達は恋愛を一番尊いと思っているが、自分は「徹底的にもてなかったということもあるが」恋愛には懐疑的であると言う。

なぜなら恋愛には商業的なものがついてまわって、お金と直結しているのが生理的に嫌だったのだと言うのである。「女の子は自分にいくらの値段がつくのか試したいのである。」「その実績を思い出としてたずさえ、家事、育児、介護という主婦としての労働が待つ結婚生活へと突入していくのである。」と解釈する。

「そもそも、なぜ自分のセックスに値段がついているのだろう。せめてそれぐらいは売り買いできない、自分自身のものであって欲しいと私は願う。」「あなたにはそれだけの価値があると言って近づいてくる異性がいたら」「私たちはタダであることを思いだそう」「ご冗談でしょうと笑い飛ばして、自分を自分自身のものにしておこう。」と結ぶ。

1970年代に限らず、男は女性をランク付けしている。
先ず容貌、スタイル、頭の良さ、学歴、育ち、性格、やさしさ etc ‥‥。そして、志のある男は自分の価値観に照らし高い価値をつけた女性に相応しい男になろうと努力するものだ。
逆に女性が男をランク付けするのも当然である。三高という言葉があったように、その価値基準の中に年収が占める位置は大きいだろう。結婚という人生の一大事の1つに関し、自分を高く評価してくれる相手を選ぶのは当然の営みではなかろうか?

昔から男は女性の容姿を中心に値段をつけてきた。同じ金で買われる女にも「太夫」と呼ばれる高級花魁があり、「チョンの間」と呼ばれる売春婦があった。そのセックスの値段には天と地ほどの差があったのだ。名ジヤーナリストであった大宅壮一氏の言葉にさえ「男の顔は履歴書である。」「女の顔は請求書である。」という名言がある程だ。

史記の刺客列伝に「女は己を ( よろ ) こぶ者のために ( かたちづ ) くる」とある。ここで重要なのは、己「が」ではないことだ。先ず好ましいと思えることが前提なのだが、己「を」寵愛してくれる者のために一層念入りに化粧をし、着飾ろうとするのが女性である。そして寵愛されていると感じる基準は、その人の経済力の枠の中での自分への貢献度であるのだ。
実は、この言葉の前には「士は己を知る者のために死す」という言葉がある。3人の主人に仕え、その中で最も自分を高く評価し、厚遇してくれた主人の為に命を賭してさえ報いんとしたのである。

今日の今日まで、2つの言葉を私は違うものと認識し、使用してきた。しかし、考えてみると「女は‥‥」の言葉は、男が収入を稼ぎ女は男に養われることを当然とした時代の言葉だ。そして「士は‥‥」の言葉も何らかの主人に仕えることが当然とされる状況の言葉なのだ。

女性が自立し、男が完全に独立し自ら主人となったとき、人の評価に一喜一憂することはないに違いない。つまり木皿氏の文章は、結婚により養ってもらう立場から早く離れ、自立し、独立した立場で結婚に向き合いたいではありませんか?という提案なのかもしれない。

2017.11.13 記